同十九年大坂の役に出陣。
冬の陣後、長男秀宗が宇和島十万石に取り立てられます。
夏の陣では敵将後藤基次、薄田兼相らを討ち取り、真田幸村と接戦して大功を挙げます。
元和六年(一六二〇)、支倉常長が帰国、壮大な政宗の夢もむなしい"図南の鵬翼"に終わりました。
寛永三年に権中納言、従三位に昇ります。
同五年、別錘の若林城が完成し、政宗はここに隠居して花鳥風月を友とします。
寛永十一年、江州に五千石を加増され、併せて六十二万石となります。
同十三年五月二十四日、江戸において没。
死因は胃癌だといいます。
治世五十二年、行年七十歳。
瑞巌寺殿貞山禅利(一に利公)大居士と法識し、仙台の正宗山瑞鳳寺に葬る。
瑞鳳殿はその霊廟です。
大手門から東を見通して仙台橋をかけ、大町、新伝馬町と南町、二日町の東西、南北の路線を基準に町と屋敷を割り出しました。
大崎八幡、国分寺薬師堂の修造営、松島瑞巌寺、五大堂、陸奥一の宮塩釜神社の再建も行ないました。
一方、領内農村にも支配体系を貫伊達政宗徹させ、検地、戸口、入口調査はもとより、新田開発、河川改修を行ない、売米制度を明示して仙台米が江戸で本穀米として重用される基をなした。
同十三年、松平の姓を許され、陸奥守に叙任。
同十六年ソテゴ、ビスカイノ来仙。
同十八年、世界に開眼した政宗の支倉常長遣欧使節の壮挙が実現します。
関ヶ原合戦では東軍に属し、上杉攻撃に当たりました。
合戦直前には家康より約五十万石下封の覚書、世にいう「百万石の墨付」を与えられましたが、同五年十一月、北境④南部領を侵犯する和賀忠親事件のことで論功の約束は沙汰止みとなります。
没後、刈田郡と江州五千石、常陸に一万石加増されます。
慶長六年、仙台城(青葉城)築城普請が始まり、同八年落成、八月岩出山城より仙台城に移ります。
旧地名の"千代"を"仙台"に改めたのも政宗で、城下の町づくりも併わせて行ないました。
一揆の黒幕として疑われることもありましたが、許されて木村吉清に代わり葛西大崎旧領に入ります。
天
正十九年秋、仙道、長井の本領を没収されることで居を玉造郡岩出山に移します。
文禄の朝鮮の役に従いました。
文禄四年
(一五九五)、関白秀次事件に連座した疑いで再度、秀吉の詰問を受けた力辛くも危機を脱します。
慶長二年(一五九七)従四位下、右近衛少
将叙任。
かねてより徳川家康と親しく、慶長四年、長女五郎八姫と家康六男松平忠輝の婚儀が成り、完全に徳川氏摩下に属しました。
天正十二年家督相続しました。
翌年、父輝宗が畠山義継に殺されると復讐の挙に出て畠山氏を二本松に討ちます。
その後、佐竹、藍名、結城、石川ら連合軍と戦い、仙道人取橋の合戦で撃退しました。
これを弓矢の初めとして覇業は進み、同十七年、藍名氏を摺上原に破って会津を略取。
会津四郡、仙道七郡を併せ収め、最大の領土を得て南奥における伊達氏の制覇はほぼ成ります。
しかし翌年、豊臣秀吉の小田原征伐があり、参陣して弁疏したが会津と仙道南部は没収され、黒川城から米沢へ帰ります。
同年、葛西・大崎一揆がおこり、蒲生氏郷とともにこれを鎮圧しました。
政宗は永禄十年八月三日、十六代伊達輝宗の嫡男として羽州米沢城に生まれました。
生母は最上氏義姫(保春院)。
幼名梵天丸、藤次郎。
十一歳で元服。
政宗の名は先代大膳大夫政宗の名に因みます。
七歳頃萢瘡を疾み、毒のために右目を失明し、のちに独眼竜と畏怖されます。
天正七年(一五七九)、三春城主田村清顕の娘愛姫(陽徳院)と結婚しました。
歴史の話で~す。
伊達氏は藤原姓魚名中納言山陰をもって流祖とし、山陰の子孫朝宗が文治五年(一一八九)の奥州征伐乙四人の子供を従軍させ、軍功によって伊達郡を賜り「伊達」を称し、初代となりました。
伊達は古くは「イダ}ギテ」と訓み、のちに「ダテ」に転じたとされています。
独眼竜政宗は系譜止は十七代です。
動乱期である室町時代に入ると、九代政宗(先代)、十一代持宗は関東政府支庁の稲村公方に抗して互角に戦い、大いに武名を挙げました。
十四代植宗は奥州守護職に補任されることで奥州随一の名族の地位を確立しました。
伊達政宗・・・その2
政宗は永禄十年八月三日、十六代伊達輝宗の嫡男として羽州米沢城に生まれました。
生母は最上氏義姫(保春院)。
幼名梵天丸、藤次郎。
十一歳で元服。
政宗の名は先代大膳大夫政宗の名に因みます。
七歳頃萢瘡を疾み、毒のために右目を失明し、のちに独眼竜と畏怖されます。
天正七年(一五七九)、三春城主田村清顕の娘愛姫(陽徳院)と結婚しました。